フキノトウ


2月25日自然教育園にて。フキノトウを見ると裏山の雪融けを思い出す。ゴム長靴が埋まってしまわないように気をつけながら雪を踏んでゆくと、沢がそこだけ雪を融かして勢い良く流れている。フキノトウは沢の土手に雪を割るように顔を出している。小さなフキノトウを選って摘んで帰るのだが、どうやって食べたのかは良く覚えていない。「とうとうと雪割る沢にフキノトウ」

「日本語の文法を考える」
「は」は大きい広い部分を示し、「が」は小さい狭い部分を示すと見る見解もある、と三浦さんらの説を紹介している。しかし、そうでないケースとして、「鼻は象が大きい」などを例にあげ、丁寧に反証している。大野さんの説の方がやはり納得感がある。
大和言葉には抽象名詞が少ないことを指摘していたのはこの本だった。漢字が入ってきて新たに抽象名詞を作る必要がなかったから、あるいは、できかけた抽象名詞が漢字に押されて使われなくなってしまった、と言う解説である。輸入された抽象名詞は音声言語としては定着しにくかったため、未だに日本人の言論に影を落としていると指摘する。
一方でオノマトペアは、アイヌ語・朝鮮語・マレイ語などに固有の語の作り方らしい。「くるま」「そそぐ」などなどオノマトペアを語幹とする語彙も多いのだそうだ。感覚と対象を融合させ未分化のまま言語化して行く表現方法は抽象名詞が少ないことと表裏の関係にあるとする。
日本人の弁論べたは日本語の起源に遡る問題なのだろうか。

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フクジュソウ  2月25日


1月には固い蕾だったのが、見違える艶やかさで咲いている。想像していたよりも大きな花で、陽を真正面に浴びているのに花弁の黄は柔らかだ。「黄泉還り陽の暖かき福寿草」ランニングハイ。

大野晋さんの「日本語の文法を考える」を読み返す。
言語の本質をコミュニケーションに求める。未知のことを伝えれば足りるのだとする。だから客体のもの・ことが聞き手にとっての既知か未知が重要なのだ。
「は」と「が」の問題をそこから説き、「は」は聞き手にとって既知のもの・ことと未知・既知のもの・こととの関係を話し手の主体的な認識として表現するものだと説明する。
だから「は」は格を提示するものではなく、題目として提示する。「このネズミはネコは食べない」は面白い例題だ。確かに英文で言う主語・目的語の別を「は」は提示していない。
これに対して「が」は聞き手にとって未知のもの・ことを条件とする未知・既知のもの・ことを全体として聞き手の未知の情報として提示する。これも格助詞としては説明しないのが興味深い。その例として「自分が建てた家」を話し手に新しい情報として提示する、家に対する条件として表現していると解釈するのだ。普通は格助詞として理解すると思うが暗にそうではないと言っているようだ。
三浦さんの本を読んでから改めて読むと、以前、読んだ時とは違う理解になっているようだ。

ラン


雨の日曜日。気温が高くて小降り、歩くのにさほど苦にならない。木の芽が膨らみかけ水滴までが暖かく感じさせる。唇の剃刀傷はまだ癒えず今日も水泳はお休み。夕方、ジムでランニング。いつものトレッドミルがいっぱいで、別のタイプので走る。心なし、早く感じる。歩幅が表示されるタイプなので気をつけてみると、歩幅の左右差はあまりなくなったようだ。それより、呼吸を吸う吐くでの違いが大きい。吐ききる時に最も歩幅が広くなるようだ。

ラン: キロ6分で10km。9kmから500mはキロ3分0秒。

「日本語はどういう言語か」
一応、読み終えるがどのくらい頭に残ったかはかなり疑問。何度も読み返すようだ。それにしても主体表現の語。助詞・助動詞・感動詞・接続詞、これが話し手の感情や意志そのものを客体として扱うことなく直接表現する語である、とされるのだが、今ひとつしっくりこない。例えば、羊・の・群れ、の「の」は二つの客体の間の関係を表現していて、話し手の感情や意志とは無関係に思えるのだが。
「は」と「が」の違い・使い分けについて、「が」の方が狭い部分を表現するとする。以前、大野晋さんの本で、「は」「が」は英語で言えばコロンに相当し、題字構文を構成しており、「は」は既知・既出の題字、「が」は未知・未出の題字と説明されていてなるほどと思ったが、三浦さんはこれを否定する。その論は分からないではないが、やや浅い気もする。
未だにこの問題に万人が納得する体系的説明ができていないらしいことに驚くとともに、興味を覚える。

ラン


前の日、髭剃りしていて剃刀で唇を切ってしまう。水泳はお休み。午後からゆっくり出かけることにして、午前は自然教育園を散歩。暖かで、陽射しが軟らかい。春の気配にあふれている。入り口を入ってすぐのフクジュソウが目立った。ユキワリイチゲが群落を作っている。まだ咲くにはやや早い。2月5日に1輪だけ咲きかけていたのは本当にユキワリイチゲだったのだろうか。やや不安。ジムではゴルフのスイング練習とトレッドミルで10kmのラン。9kmから500mは16km/時にアップ。今までこれがキロ4分のペースだと思っていたのだが、突然、違っていたことに気付く。キロ4分は15km/時だ。キロ3分40秒で走っていたのだった。このスピードで走れるようになっていたと言うのは嬉しい誤算ではある。ゴルフのスイングは1打1打クラブを替えてセットアップからのルーティンの練習。意図的に力を抜いてスイングする。途中で各クラブ2,3打は強打。スイングのスピードは変えず右背筋に力を入れて打つ。一打毎に汗をかくようだった。

「日本語はどういう言語か」
やっと本論。
ヨーロッパの言語学者は孤立語→膠着語→屈折語と進化するものと信じていた。今は屈折語は孤立語になって行くと考える学者もいるらしい。主体的表現をするのに屈折語では語が活用するのに対して、膠着語である日本語は客体表現と主体表現とが別の語になっていて客体表現の語に主体表現の語が付くことに大きな特徴がある。主体表現の語とは助詞・助動詞がその代表である。
客体表現の語は名詞・代名詞・動詞・形容詞・副詞があるが、それぞれ形態から分類するのではなく、認識の構造から分類すべきとする。特に代名詞の説明が興味深い。一人称の客体表現の中では、話し手が観念的に自己分裂して、本人が客体として認識されているとする。だから、おのれにっくき奴、などと言う表現が成立するとする。
読み進むうちに、学校文法のある種形式主義的な説明の胡散臭さの所以が何となく分かってきて、理論体系としての整合性を感じられてくる。

何年ぶりかでカワセミを見た!
一瞬のことだったのでピントはずれずれだが、この前には肉眼ではっきり見ることができて嬉しかった。
ここ数年はいなかったのだと思う。
どこに行っていたのだろうか。

ジンチョウゲの蕾


去年は3月半ばに撮影した株だと思うが、もう蕾が大きくなってきた。良く見れば次々に春の花が咲く準備をしている。

「日本語はどういう言語か」
まだ、言語の特徴。客体的表現と主体的表現との語彙があり、言語はその総括的表現である。それは認識の対象と認識する主体の存在が必要であることに起因する。例えば
火事
は客体的表現ではあるが、言語かとうかは微妙である。単なる線の集合に過ぎないかもしれない。しかし、
火事!
となると、主体的表現が統合されていて、言語表現となっている。

ヤブツバキ白 2月21日


やや大ぶり。少し前から咲いていたに違いないが、通る道が少しずれていて気付かなかった。たまには寄り道もしよう。

「日本語はどういう言語か」
まだ、言語とはどういうものか、を読み直している。言語の特徴、意味の次は言語表現の二重性。言語本来は普遍的な表現であること。それに特殊的・感性的なかたちを創造することもできる。それは歌われる場合であるとか、イラストレーションである場合などに顕著になる。

ナノハナ 2月21日


咲き掛けを遠目に見ると菜の花と気付かない。それにしても早すぎないかと思ったら2月初めから咲くものらしい。皇居周辺で咲くのは3月中旬とか。その印象が強かったのだろう。

「日本語とはどういう言語か」
日本語の話の前に、言語とは、の解説が続く。言語の「意味」とは何か、これが難しくて、すっきりと頭に入らない。対象から認識への過程的構造が関係付けられている。この固定された客観的な関係を言語の「意味」と呼ぶ、、、。うーん、言語過程説とやらも読み直さないといけないか。